ちょっと前に「朝練」をはじめたことがきっかけで人生で大事なことは何なのかを見直すことができた、という話を書きました。
これがきっかけで、けっこう自分自身の生き方とか価値観とかに変化が起きていまして、最近もうひとつ、似たような考え方で「楽しめるようになった」出来事があったので、それについてまとめてみたいと思います。
上達するほど楽しくなる時期
最近変化があったのは、週1くらいで続けてる健康維持のための運動に関する話です。
普段家から外に出る機会がないごりゅごは、なんとか週に1回くらいは運動をしようと試行錯誤し、2021年12月からプールに行って泳ぐことを始めました。
これがけっこう自分の性に合っていたのか、2022年に実際にプールに行った回数は年間で合計55回。1年間は52週、週に1回くらい行くことが目標だったので、目標をきちんと上回る、大変素晴らしい実績を残すことができました。(大抵、盆正月とか休みがちで、そうなると普通に週1回行くだけでは目標を下回る)
この時期は、どうやったらもっと長く楽に泳ぐことができるんだろう、って試行錯誤すること自体が楽しくて、そのためにObsidianで「クロールについて調べたノート」なんてものも作ったりして、非常に健全に泳げていました。
停滞期に陥りモチベーション低下
が、2023年の5月に、新しい趣味として「ギター」をはじめてから、段々と回数が減っていきます。2023年にプールに行ったのは合計で38回。9月は2回行ったけど、10月は0回で11月も12月もそれぞれ1回ずつ。9〜12月の4ヶ月で「運動した」と言えるのは4回だけにまで減少してしまいました。
ある程度泳げるレベルに達して成長が鈍り、飽きが来ていること。プールに行って泳いでるよりギターの練習してる方が楽しいと感じること。他にもいろんな要素はあるんですが、要するにまとめると単純に「プールがあんま楽しくない」と感じるようになっていたのです。
無理せず楽しむことが大切
とは言え、たまに歩くだけではさすがに運動量が少なすぎて不健全だし、それなりになにか運動をした方がいい。でもなあ、なんかなあ、あんまプールとか頑張りたくないし、筋トレとかもあれはあれでハードで、それならプール行ってる方がいいしなあ。なんてことを考えいたら、ふと気がついてしまったのです。
俺、自分自身で変な制約を課して、自らプールに行くのをつまらなくなるようにしていないだろうか?と。
自分が最近プールをあんま楽しくないと感じてる理由は「厳しい」からではないだろうか?自分自身で厳しいルールを課して、それを達成することで「いい運動が出来た」というルールを決めてるだけじゃないだろうか?そして、その目標をクリアできていないと「足りない」みたいに感じてないだろうか?
運動部にいた時そのままの感覚で「厳しい練習」を考え出して、その「目標」をクリアすることで「運動」ができたと感じるようになっていないだろうか?
「今日は15往復休みなく泳ぐ」「次回はもう1回増やす」みたいな目標を決めて、それをクリアすることが「プールに行く」という行為とセットにして考えてたけど、その目標を決めてるのは自分自身です。
でも、よくよく考えてみれば、俺はプールに行ってノルマを達成することが目的ではないんですよ。目的は、適度な運動によって、長期的な目線での健康で健全な肉体と精神を手に入れること。
「厳しい練習」を課すことで、行くのが嫌になるくらいなら、もっと「適当でいい」と思って、適当に泳いで帰ってくればそれでいいじゃん。やりたくないと感じながらいやいやキツイ運動をするより、まあまあ楽しい感じで、適当に少しでも運動が出来ればそれでいいじゃん。
「もったいない病」から解放される
こういう風に考えてしまう理由には、自分にある「もったいない病」みたいなものも関係していると予想しています。
「お金を払ってプールに行ったんだから、支払った金額分、施設を最大限活用しないともったいない」みたいな感覚が昔っからあって、どうしてもなにか目の前のものを有効活用しようと考えてしまう。この感覚のせいで、余計に「厳しい練習」をしようと思ってしまうのかもしれません。
その「もったいない病」的な思考こそが長期的な目線で悪影響を及ぼしているのではないかと考えて「がんばらない」で適当にプールに行って、適当に泳いで帰ってきました。
で、結果なんですけど、適当に泳いだだけでもすげえ気分がいいんですよ。かつては、連続で500m〜1000m泳ぐんだ、みたいに頑張ってたけど、そういうのはやらない。50m泳いだら休憩して、50m泳いだら休憩して歩く。全部で2〜3回それをやったらおしまい。それで別にいい。
そういう感じで頑張らずに泳いで帰ってきても、当日も翌日もいい感じの「運動した」という疲労感があって、十分な満足感がある。
この程度でも、体を動かせば翌日以降も気分がよくて、いい気持ちで1日が過ごせます。
あれ、これなんかいいことしかないやん。泳いでる時はつらくないし、十分運動した満足感は味わえる。プールのお金の有効活用とか言うけど、所詮1回300円。それを有効に活用しないといけない、と考える方がもったいない。
もったいない病も、もちろんうまく使えばいい効果は得られると思ってるんですが、その感覚はもっと自分を上手にいい方向に持っていくために活用しなければならない。
そんなことに気がつけたのです。
楽しむことが人生の目的
結局、この話も「朝練」の時と一緒で、気がつけば自分で自分に制約を課して、自分自身の人生を詰まらないものにしようとしていた、ということでした。
ある程度までは自分の性質で、受け入れてうまく付き合っていくしかない部分ではありますが、それをわかった上でうまく活用できることが大事なんでしょう。
そして今回も、こういうことに気がつけたのは家族という「他人」が居たからなんじゃないかな、と思います。
妻と息子は、ごりゅごみたいになんかケチくさい感覚を持ってなくて、ごく自然に「楽しむ」ことを最上位において行動ができている。それを見ているおかげで、自分も「そっちの方がいいな」と感じられるようになる。
ちょうど最近ブックカタリスト(ごりゅごがやってるPodcast)で「タスク管理がスパルタ化してしまう」というような話もでてきたばかりだったりします。
仕事も趣味も、人生何もかも、スパルタだけでは、長期的な習慣化は難しい。
ギターの練習も「一生懸命やる」のはいいけど、その辺りの塩梅は気をつけねばですな。