前回からLogseqというアウトライナーをいろいろ試していて、ひとまずお試しで「Obsidianと同時に(同じディレクトリで)Logseqを使う」というのをやってみています。
Logseqが便利だな、というのは、デイリーをベースに「日記」「日誌」的な使い方をすると、かなりスムーズに「特定の内容の記録」をまとめられるということ。
このおかげで、少なくとも今週一週間は「作業記録を残す」ということに対する意識がだいぶ高まりました。iPhoneから「今日」のページへの追記というのもスムーズにできて、さらにObsidianと同時に使うとLogseqからでもObsidianのファイルが普通に開ける&編集できるのは面白いところです。
(ただし、Obsidian→Logseqで見るはよいが、Logseqで編集したものはObsidianで扱いにくいので、Logseqでは「編集はデイリーだけ」という割り切りで使っている)
両方を使うと、↑のようにいろいろ細かな点で調整しないといけないことなんかもあって、すくなくとも誰にでもオススメできるようなものではないんですが、ローカルにファイルがあればそういう変なこともできる、というのはローカルにファイルを置くメリットとして考えてみてもいいのかもしれません。
この辺の話は、近いうちにブログにもまとめようかなと考えてるので、疑問質問リクエストコメントなどあればコメント欄やメールの返信でお知らせください。
『情動はこうして作られる』という本が、脳神経科学、心理学的に大変面白い本でした。簡単に言うと「感情」というのは「ある」ものではなく経験によって「作られる」という話で、脳の仕組みについてとても興味深い意見が書かれたものでした。
この分野の本は最近気に入っていろいろ読んでいるのですが、この本が他とは一味違ったのは、脳の仕組み(情動)にだけでなく、それを踏まえたセルフマネジメントの部分でも多くのページが割かれていたこと。
そこでは、ごりゅごがなんとなくイメージしていたことが見事に言語化、理由づけされており、あらゆる場面で納得させられまくり。特に「言語化の重要性」というのは情動の観点からも重要という話が面白く、日常生活のあらゆる場面で言語化というものを意識するようになりました。
本1冊分をすべてまとめるには遠く及びませんが、特に興味深かった「言語化」について、少しまとめてみたいと思います。
脳が見ているのは「世界そのもの」ではなく「予測した世界」
我々が「見えている世界」というのは、世界そのものをそのまま見ているように感じますが、実は我々が見ているのは「脳が予測した世界」を見ているだけで、我々に見えているものはすべてが「脳が作り出した幻想」なのです。
このことをイメージしやすいサンプルとして、両眼視野闘争という有名な現象があります。右目と左目の二つの目それぞれ仕切りで区切り、左右にまったく別々の映像を見せます。左目には「顔」が、右目には「家」が見えるようにしてみると、人間は二つの混ざった画像ではなく、二つの画像が交互に見えてきます。
これは、ある程度自分で「こっちを見よう」と意識すると、見たいものが見える時間を長くすることができますが、自分の意志で完全にコントロールすることはできません。この実験はいろいろなバリエーションがあり、異なる2色の模様を見せるとその色が混ざったり、鳥と鳥カゴを見せた場合には、交互ではなく鳥が鳥カゴの中に入っているように見える、という場合もあります。
どのような結果についても言えることですが、これらは「目の前にあるものそのもの」が見えているわけではなく、脳が経験に基づき「世界はこうなっているはず」という予測した世界しか見えていないのです。
顔と家が混ざるなんてことは自分の過去の経験上「起こらないこと」なので、それぞれの目で違うものが同時に見えると脳が現実を判断できず、それぞれの画像を順に予測した映像を見せてきます。面白いのは、鳥と鳥カゴであれば「鳥が鳥カゴの中にいる」ことは容易に予測できるので、実際に鳥がカゴの中にいるように見えてしまうことです。
このことは現在、脳は「事前確率が高いと予測されること」ならば混ざった画像が見えるが、事前確率が低いことは適切な予測が出来ず、さまざまな「候補」が脳内に見えてくる、というように解釈されています。1
「感情そのもの」ではなく経験から予測をした感情を知覚している
『情動はこうして作られる』では、人間の情動(≒感情1)もこれと同じようなものだと伝えています。
人間の見るという行為は、「視覚に入ってきた情報」を脳が処理し、予測を生み出しています。これと同様に、感情も「現在の身体状況や脳内物質の分泌量」を脳が処理し、過去の経験と照らし合わせて今の自分の情動というものを「予測」しているのです。
心臓が激しく動き血流が大きくなっていて、足腰の乳酸値が増加している状況なので、今は「疲れて苦しい」という情動を味わっている。
セロトニンの分泌が減少し、ノルアドレナリンが上昇。心拍も上昇しているので「緊張している」と感じる。
人間がなんらかの情動を味わったときは、自分が経験してきた体験から似たような身体の近い状況のものを見つけてくる。そして、自分はきっと今あのときと同じような感情なのだろうと脳が予測して、その時の情動を「感じて」いる。
これらの情動は、過去の自分の体験を統計的に要約したものを「概念」として圧縮されて脳が保存しています。
細かな情動を言語化して高解像度で記録する
ここで重要なのが、人間は「体験を統計的に要約して」脳に保存する、ということです。
つまり、できるだけ「いい素材」を「上手に要約」してあげれば、脳に残る情動というのは自分にとってより取り扱いやすい、都合のいい情動として保存できる可能性がある、ということです。
まず大事なのは「いい素材」を集めること。これは「情動粒度を高める」という表現がされています。
なにかを体験し、なにかを感じたとき、大ざっぱに「うれしい」「楽しい」「悲しい」などという表現をするのではなく、より細かな感覚の違いを、高い粒度で味わうことが重要です。
そして、これをもっとも簡単に実践できるのが「情動の言語化」です。
たとえば「幸福な」という言葉は、情動として大ざっぱすぎるので、より細かく「陶酔的な」「至福の」「啓発された」などという言葉を使ってより細かく区別します。1
そして次は「統計的な操作」
このことでもっとも有効な方法は「肯定的な日記を書くこと」です。高い情動粒度で保存した情動を、書くことを通じて「再体験」し、脳のシナプスの結合を強化します。否定的な日記を書いてしまうと、脳が否定的な情動が強く記憶と結びついてしまい、否定的な情動を「予測しやすい」脳になってしまうのでよくありません。
また、情動の予測に関しては「リアルタイムでの情動調整」も可能なことを覚えておくとよいでしょう。身体の感覚というのは自分が世界を「予測」するための材料として利用されていますが、これを「逆」に使うことで、情動のコントロールが可能です。
不安を感じているから心拍が早い、と思うのではなく、この胸の高鳴りは不安ではなく期待や興奮だ、と言い聞かせることで身体感覚も変化します。
不安という感情は、期待に再分類し、緊張という感覚は「決心」に。これは「臆病」と分類してはいけません。
また、運動の苦痛と、痛みの苦痛などもきちんと分類し、痛みと不快感をきちんと区別することも有効です。
他にも、身体予算、という観点でも「自己の情動を手なずける」方法についても書かれており、これもすごく当たり前のようなことなんだけれども、書かれていることはすごく納得できる、確かにその通り!と説得されたくなる話でした。(よく寝てよく食べて運動しろ、という内容を身体予算という観点で説明する)
また、この話はごりゅごの「面白かった本について語るPodcast」でも語っているので、よろしければこちらもご利用ください。ここで書ききれなかった部分にもわりと触れています。
BC035 『情動はこうして作られる』 - by goryugo - ブックカタリスト
言語化以外にも、読書や映画、旅行や食べたことのない料理など、新しい体験も情動粒度を高めてくれますが、最も手っ取り早いのが「言語化」です