読んだ本について堂々と語る方法 の続きです。
おそらく本の「序章」に相当する部分の予定。今回は「思い出話をつかみにもってこよう」と考えて、そのあたりの話を書いていきます。
なぜ自分が「読んだ本について堂々と語る」ことをしたい思うようになったのか。きっかけは5年前に遡ります。
ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』に圧倒されたのです。
「歴史本」といえば戦国時代幕末もの、三国志や春秋戦国時代くらいしかほとんど体験がなかった自分には、そのスケールの大きさと、そこから導き出される人類の「なにがすごかったのか」という話。これは、今までの自分が体験したことがない、未知の読書体験でした。
すごい!なんだこれは?今まで読んだことない「歴史」の本だ!こんな歴史の本があったのか!見たことない切り口で語る壮大なスケールの物語!人類という存在の見え方が、読む前と後で全然別のものになってしまった!
何年かぶりにノンフィクションに夢中になりました。ただし、今ここに書いた感想は、当時のものではありません。これは、当時の自分が感じたであろう感想を、自分自身で想像しながら言語化したものです。当時の自分の感想は「すごい!面白い!」というだけで、それ以上は全くなにも言語化ができていなかったのです。
それでも「すごい!面白い」と思っていたことは間違いなく、それを原動力にして会う人会う人に「サピエンス全史は面白かった」と話していた記憶があります。
ただし、自分の感想は「面白かった」しかありません。人に「この本めっちゃ面白かったよ」などと言うくせに「どういう感じの本なんですか?」と聞かれたら「すごかった」「それ以上は自分の理解が及ばない。自分の力では説明ができない」としか自分では語れない。面白かったから人に読んでもらいたいんだけど、面白さを人に伝えることができない。
当時の自分は「すごかった」以上の感想を何も言えなかったことを「自分の理解が足りない」からだと思っていました。そのうちもう一度読み返して、きちんと理解しようと考えつつも、本を再読するモチベーションはなかなか湧き上がってきません。ただ、そんなに面白いと思って人に語ろうとするくせに、自分自身でなにも伝えることができない。果たしてそれは「読んだ」と言っていいんだろうか?
数時間(数十時間?)かけて一冊の本を読んで、自分から出てくる感想が「面白かった」だけ。読書の「体験」として素晴らしい体験ができたのは事実ですが、それだけの時間をかけても書いてあったことをなにも活かせていない。これは、行為として非常にもったいないのではないか?
このもったいない感じは、自己啓発的な「成長」という観点ではなく、もっと楽しい人生を生きることを目的にした観点です。
読んで面白いと思ったものがどう面白かったのか語れること。伝えられること。今ならわかりますが、読んだ本の面白さを伝えることは、面白い本を読むことと同じくらい面白いのです。なんならそれは、本を読むことを通じて他の人とより深い対話ができるという意味で、本を読むこと以上に面白いのです。
当時の自分はまだ、面白さを語れなかったことをもったいないと感じることすらできていませんでした。ただ、5年近く経った今でも思いだせるぐらい自分にとって印象的な出来事だったのでしょう。
おそらくこのときのことがずっと意識の片隅に残っていて、いつか「読んだ本をきちんと語れるようになりたい」と思っていたのかもしれません。
今ならわかりますが、読んだ本について語れるようになることは誰でもできるようになるスキルです。それができない人ができるようになることは、けっして簡単だとは言えません。ただし同時に、練習すれば必ずできるようになるものだとも考えています。
そして、そのための第一歩は、本に書いてあったことやその感想を「自分の言葉で記録する」ことです。
読んだ本を語るという観点において、本の端っこを折ったり付せんを貼ること、読んでいて面白いと思った部分に線を引くことは、ほとんどなんの役にも立ちません。
『Learn Better』の中では、なにかを学習するという観点で重要な箇所に線を引くことにほとんど効果がないことは再三述べられていますが、読書メモでも「重要な箇所に線を引くことにほとんど効果はない」ことは容易に想像できます。
これは「語る」という観点で考えてみても多くのことが想像できるでしょう。
本に書かれている内容は、あくまでも「一冊の本」という大きな文脈の中で書かれている中の一部分だけのもの。名言・教訓のようなものならば単体で機能するかもしれませんが、それ以外は「文章を抜き出しただけ」では意味を持ちません。
もちろん、読書中に付箋を貼ったり線を引いたりすること自体に意味がないわけではありません。ただしそれは、あくまでも「もう一度振り返る」ための目印にしておくことで、線を引いたらそれで終わり、としてしまったらなんの意味もありません。
本の内容を「語る」というのは、書かれていた文章を読み上げることではありません。本に書かれていた内容を自分なりに圧縮し、要約し、自分なりの言葉に変換する必要があるのです。
そうした変換を、やったことがない人がいきなりできるのか、といわれたらそれは簡単ではありません。もちろんそういうことがいきなりできてしまい人もいるかもしれませんが、そうでない人は練習して身に付ければいいのです。
そして、その練習方法というのが「書かれていた内容や感想を自分の言葉で記録する」ことなのです。
これは言ってみれば「すでに一度自分で書いたことなら語ることもできるだろう」という理屈です。
語るのと違い、自分で書いてみると書いたものをもう一度振り返ることができます。人間の記憶というのは曖昧なので、ただ語っただけの場合、自分がどんなことを語ったのかをきちんと覚えておくことができません。
それに対して、書いたものは正確です。自分が書いた言葉は全く同じ内容を、いつでも簡単に振り返ることが可能です。そうすると、書いた文章を客観的に、他人の視線で振り返ることができるようになります。
それを読み返すことで、本の内容をきちんと理解できているのか。面白い語りができるのかどうかを冷静に振り返ることができるのです。
つまり、本の内容や感想を自分の言葉で記録することは「わかってるつもりでわかってない状態」であることを気がつかせてくれる効果がある、ともいえるでしょう。