「エバーグリーンノートのタイトルの付け方」に続いて、今回は「エバーグリーンノートは短くする」ということについて考えてみたいと思います。
🌱どうやってエバーグリーンノートのタイトルをつけるか - by goryugo - ナレッジスタック
前回の内容は、一言でまとめると「ノートのタイトルには結論を書く」というものでした。今回はそこから一歩進んで、タイトルも中身もできる限り「短くする」ということを考えていきます。
タイトルとは1つの概念を1つの言葉に圧縮するもの
ノートにタイトルをつける目的の1つは、使用する短期記憶の容量を圧縮するためです。
人間は短期記憶が少ない1ので、新しいことを覚えたり考えごとをするときは、できる限り「一時的に覚えておくことを圧縮して少なくする」ことが秘訣です。
だからこそ暗記は今でも価値がある行為なんですが、これは1つのことに1つのことを書く「エバーグリーンノート」にも同じことが言えます。
エバーグリーンノートも、考えた内容を圧縮して、考え事をするための空き容量を増やすことが目的の1つ。
「ノートのタイトルには結論を書く」というのは「ノートに1つのことだけを書く」ためですが、視点を変えると「ノートに書かれている中身をタイトルに圧縮する」行為でもあります。
数百文字を使って考えたことを、タイトルという20文字くらいの要素に圧縮する。こうすることで、ノートに書いたことよりも「少ない情報量で」「多くのこと」がイメージできるようになります。
タイトルをつける目的は「1つのことを書くため」ですが、1つのことを書いてタイトルをつけることで「情報の圧縮」ができる。この「圧縮」も「深く考える」ためには重要な効果です。
断言することで間違いに気がつける
また、タイトルを短くするのと同じように、ノートの本文も「可能な限り短く」します。
これにももちろん「圧縮」という目的がありますが、本文を短くすることには「間違いに気がつきやすくする」「疑問点をあぶり出しやすくする」という効果もあります。
たとえばごりゅごの場合、ブログなどで「〜と思います」というような「弱い言葉」を使うことが多くありました。これは「〜と思います」と書くことで、困ったときにはすべて「個人の意見です」と逃げることができるから。
当時はこういう表現を半ば無意識で使っていたんですが、こういう「弱い言葉」は、自分のノートには書くべきではありません。
「弱い言葉」は、表現が曖昧なので、自分で見返している場合にも反論しづらく、疑問点や間違いにも気がつきにくいです。
そもそも、エバーグリーンノートの価値は「書いて、考えること」にあります。
ノートに自分の言葉で文章を書く理由は、自分の考えを深めるため。だから自分が書いたことは「間違っていてもいい」わけです。自分で書いて、間違いに気がつけたというのは「よいこと」で、曖昧な書き方をして間違いに気がつけない方が問題です。
ノートを書いて「それって変だな」「なんでそうなるんだろう」と考えることができるようにすることは「よいこと」
なので、間違いに気がつけるように曖昧な書き方をしない。そして同時に、自分が書いた文章を読みながら「疑問点」「批判」「反論」を常に考えて、ノートに書いていく。
こうやって「短く書いて」「反論して」「それに答える」ということを繰り返すことは「書いて考える」行為そのもの。
これこそが「自分の頭で考える」ことの真髄とさえ言えるでしょう。
冗長な表現は「読むのが面倒になる」のでやめる
また、曖昧な書き方以外にも「冗長な書き方」も「わかりにくくなる」ので避けるべきです。これは単純に、文章が長いとそれだけ読むのが面倒になるので、可能な限り短くしましょう、という話。
たとえばごりゅごの場合、手癖で文章を書くと「ということ」「ような」「することができるようになります」などといった冗長な言葉をついつい多用してしまいます。(そして記事を見直して修正する手間が増える)
たとえば、冗長な表現というのは、このような意味もないと思えるような無駄な言葉をつなげまくることで、何の中身もないような文章を何の理由も目的もないままに長くして、結果的に読者にも、書いている自分にも無駄な時間を使わせるためだけの、非常に長い、ここで今書いているような冗長な文章。
エバーグリーンノートは何回も見返して考えることを繰り返すので、「無駄な表現」を削ることの価値も高くなります。
タイトルも中身も「そぎ落とす」
エバーグリーンノートを作って自分の考えをまとめていく過程では、基本的にノートのタイトルも中身も無駄なものをそぎ落として、可能な限りシンプルにすることを心がけています。
もちろんこれは今自分が考えている理想の形ですが、全部が全部そんな風にできているかというと、まったくもってそんなレベルには到達できていません。
そもそもノートを作る過程では「考えてることをそのまま文字にしている」し、うまくできたと思っても後日見返すと修正したくなるノートがほとんどです。
とはいえ、まだまだ「よくできるノート」が見つかるということは、今の自分は過去の自分より「いいもの」を見極めることができるようになったということ。
そのくらいの気楽で、前向きな気持ちも、ノートを書き続ける上で重要なことです。
ちなみに、この文章は「敬体(です、ます調)」で書いていますが、自分のノートは基本的に「常態(である)」で書いています。
これもまた「少しでもノートを短くするため」です。
ニュースレターとかもひょっとしたら常態で書けばもう少しスムーズなのかなあ、とも思うんですが、そこはまだなにか「丁寧語で語りたい」気持ちがあるみたいで、このあたりはまだ答えが出ていません。
ごりゅごさん、おはようございます✨
朝から短期記憶↔長期記憶、ということにまつわる記事を読めて、幸せです。ありがとうございます。
最後の「文章は敬体で書くか、常態で書くか」ということに関する悩み、すごく共感できました。
私も自分のノートに書く際には常態が多く、そのママ記事に流用しようとすると上から「個々は敬体に直して‥」「あ、ここに常態が残ってる‥訂正‥」の繰り返しです(´;ω;`)
ごりゅごさん同様、私もまだ丁寧語で語りたい」気持ちがあるみたいです。
敬体に比べて常態だと、断定の要素(投げやり感?)が出てしまうからかな‥と思ったりもしています。
Learn better からまだまだ気づきが沢山ありますね!
長文失礼しました😌